新興住宅地の中学校教員、教科は社会、今年は6度目の3年生担任だった。教職員組合の役員もしていた。子どもたちや保護者とも心の通じ合う、結構「いい仕事」をしていたと思う。学校は比較的落ち着いていたし、職場の人間関係も悪くなかった。ただ、猛烈に忙しく、これ以上、何かあったら心身が壊れてしまうという予感はあった。平均して1日のうち11〜12時間、職場にいる人が多かった。教職員の自己犠牲的な働き方によって、かろうじて学校の落ち着きが保たれていたとも言える。
秋になると、学校に向かう車中で動悸が高まり、冷や汗が出るようになった。11月のある日、授業を始めようとしたら、手が震えて黒板に字が書けない。何が起こったのか自分にも解らない。ふり向いたら、今度は言葉が出てこない。怪訝そうな子どもたちにかろうじて「体調が悪いので自習して下さい」と言い残して校長室へ。校長に早退を告げ、下校したのが、私の教員生活、最後の1日となった。
心療内科は「不安・抑うつ状態」と診断し、完全休養を指示。働き過ぎ、能力を超えた仕事量が原因とのこと。2か月ほどは、不眠、無気力、パニック障害などに悩まされた。家族・友人の支えで順調に回復したが、学校は、病休、休職を経て3月末日に退職した。
職場は、校長以外のほとんど全ての教職員が、慢性的な超過勤務を強いられ、自分のことで「いっぱいいっぱい」の状態だった。良心的な人が多かったが、悩みを抱える人がいても、なぐさめ励ますのが精一杯、共に状況を改善していこうという動きには、なかなかならなかった。したがって組合の加入率は低く、すすんで組合役員を担う人はさらに少ない。一方、過酷な労働条件の中で、体調を壊したり、不当な勤務を強いられる教職員は増加する。当然の成り行きとして役員である私の負担は大きくなっていった。
放課後、時には片道1時間近くかけて出かけていき、横暴な管理職を糾弾したり、仲間の職場復帰がスムーズに行くよう教育委員会と折衝をした。帰宅後、その日、学校でできなかった「持ち帰り仕事」をしていると、今度は電話。悩みを訴える組合員の電話は、どうしても長くなる。睡眠時間が削られ、だんだん私自身の心身も、おかしくなっていった。
社会科の授業、3年生の学級担任に加えて、進路指導主事、人権教育主任、学年の生徒指導担当、そして卓球部顧問が主な私の校務分掌だった。組合役員の仕事との両立は難しく、学年主任をはじめ、他の教員にカバーしてもらっているという申し訳なさを感じていた。一方、例えば教育基本法改悪を許さない闘いが正念場を迎えている週末、体育館で「のんびり」卓球部の練習を見ていていいのか、というあせりも感じた。しかし、おざなりの関わり方をすると、問題が頻発するのも部活動だ。
最も肝心な授業の準備を初め、全てのことが中途半端。学校でも組合でも、どこに行っても「不十分にしかできなくて申し訳ない。」という気持ちで毎日を過ごしていた。
体育祭、修学旅行、合唱コンクールと学校行事が続く。子どもたちのがんばりは頼もしく、つい力を入れて応援したくなる。そして、ますます多忙になる。
最後の引き金になったのは、担任する生徒が脳腫瘍で死去したことだった。御家族と話し合い、子どもたちに、半年間、病状を伏せていたことをわび、「命」について本気で学びあい、彼女の命の分も生きていこうと誓いあって、告別式を終えた数日後、私の緊張の糸は切れた。
「私がやらなければ!」と、多くのことを背負い込みすぎたと反省している。もっと、人に任せるべきだった。現に私がいなくても、職場も、組合も「回って」いるのだ。
しかし、私の個人的「心がけ」だけの問題でもない。心身を病む教員、定年前に辞めていく教員はまわりにたくさんいる。1校1人の病休なら、ましなほうだ。たくさんの生徒が、それぞれの人生を背負って集う学校というところは、何が起こるかわからない。1人1人の悩みに寄り添い、共に生きるためには、車のハンドルやブレーキペダルに例えるなら「あそび」が必要だ。今の中学校に、それは皆無である。
このままでは学校が壊れてしまうという危機感が希薄、または欠落している管理職が多いことを指摘したい。そして、教育行政の責任はさらに重い。日本の教員は大切にされていない。この勤務実態を放置したままでの「教育再生井戸端会議」の議論、文科大臣の「人権メタボリック症候群」発言、首相の「美しい国」発言などを聞くと、嘔吐感を覚える。充電ができたら、子どもたちと私たちの人権を守るために、別のフィールドで闘い続けようと決意している。